痔闘病記 神戸・大阪編

1-18: 肛門切るなら、麻酔くれ

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◎前回までのあらすじ
パンティーライナーにも徹底したプロフェッショナリズムを見せる俺。 そして、俺はシートン法の真骨頂とも言える、ゴム締めに向かう。

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2008年も半分をいつの間にか過ぎていた。
7月の最初の木曜日、俺は午前休を取ることをチームに告げる。
肛門にゴムを装着してから二週間、いよいよシートン法のゴム締めに挑む日がやってきた。
再度解説しよう。
シートン法は、そのどうぶつ奇想天外!なかわいい名前と裏腹な、数ヶ月かけて肛門を切断する、ブラマネ全身悶絶!な治療法なのである。(参照:第12話 尻にピアス
下記が図解だ。
1_18_illustration

この説明で、歯列矯正を想像するものも少なくなかろう。正解、原理は同じだ。
痛みが上で起きるのか、下で起きるのかの違いみたいなものだ。

大阪の夏は早い。7月初旬ですでに30度を超える空気は湿度を帯び、桜川に面する天満の自宅から大阪北逓信病院までの15分を歩くと、俺の額と天然パーマには、自然と汗が走る。
街を行き交う人々にとってはただの365分の1日。
俺にとっては、あっち側へ足を踏み入れる1日。
さながら、2008年痔ろうの旅、という風情だった。

なじみ深い大阪北逓信病院のスロープをゆっくりと登る。
5日間の入院生活を経て、守衛さん・事務員ともすでに顔なじみだ。
俺は会釈をしながら、診察券を差し出す。 数分後、俺は肛門科に呼ばれた。

部屋に足を踏み入れると、俺にゴム管を装着した先生と看護婦さん達の顔が目に入った。
先生「お久しぶりです。 お尻の調子はいかがですか?」
俺「特に問題ありません。痛みで眠れないのと、椅子に長時間座れないのと、トイレで毎回七転八倒なのと、シャワーが滲みて意識が飛びそうになるくらいです。」
「男の子は痛くでも我慢だ。」 ここでも父の教えが思い出される。 お父さん見てくれ、俺はここでも立派にやせ我慢をしているよ。

先生「でも痛み自体はひいてきてるでしょ。手術から二週間断ちましたからね。」
さすが大阪のベテラン名医だ。仰るとおり、痛み自体は続いているものの、手術当初に比べると痛みは軽減されてきている。 はたして、今日はどんな診察をするのだろうか。

先生「じゃぁ、早速締めましょう」

え、ちょ、ちょっと。まずは診察だけとかじゃないの?

先生「じゃぁ、ベッドに横になってください。」

え、せ、先生。 。。。

先生「じゃぁ、パンツ下ろしますね。」

ま、まじで、やばい。そこには、そこには、今日も万能なトライアングル型を誇る俺のウィスパーが眠っているんだ!

そんな俺の心の叫びはまったく看護婦さんの耳にも入らない。 パンツの両端に指をかけると、ウィスパーごとパンツは、クルンと巻き下ろされた。 うっすら血が混じる俺のトムキャットが丸見えになる。
あな痔があったら、入りたいとはこのことだ。

いきなり施術に入る雰囲気を悟った俺。
「初めてなんです。優しくしてください。」
28年の俺人生の中で, the OTOMEST (最上級)なセリフを、天に向かってそっと唱える。

肛門科の常だが、背後から先生と看護婦の熱視線が俺の肛門に突き刺さる。
先生「順調に患部が切除されて、ゴム管が緩んできていますね。」
神にすら祈る俺の寂寥感を知ってから知らずか、先生はちゃくちゃくと指で肛門を調べる。
看護婦によって体ごと固定された俺は、先生にむき出しになっている尻を向けながら、次なる恐怖にその小さな体を硬くする。
その刹那、俺の肛門に違和感が走った。

「ゴムが引っ張られてる!!今日は麻酔無しでいくんだ。。。」

先生はピンセットを手にすると、器用に俺の肛門に埋まるゴム管を引っ張りはじめた。シートン法の宿命、そのゴム管の存在価値は、俺の肛門をゆっくりと確実に切り開くことにある。この二週間で少しずつ切り開かれた俺の肛門にとって、このゴム管は緩慢になっていた。

先生が高度なマニピュレーターを髣髴させるピンセット使いで、ゴム管を勢いよく引っ張る。 俺の口から、引きつれた叫びがこぼれる。
強烈な一締めが俺を襲う。 きつく閉じたまぶたからこぼれる涙が、俺の頬を走る。
更に締め上げていく。声にならない咆哮が病室のコンクリートにすいこまれてる。
最後にピンセットでゴム管を力強く結びとめていく。 
俺は涙とともに、体力も気力も奪われ朦朧としていた。
「シートン、俺も疲れたんだ。 なんだかとても肛門が、締めあがってるんだ・・・」
フランダースの犬

きつく閉じた瞼の向こうには、天使の姿が見えたという。

<1時間後>
俺は梅田から住吉へと向かうJR線に乗っていた。
シートン法は、ゴム管で肛門に適度に圧をかけながら患部を引き切り、しかし日常生活はなんとか送れるほどの痛さ、という絶妙のバランスの上に成り立っている治療法である。 俺は生理用品を夜用スーパーに取り替えると、その痛さに耐えながら、なんとかオフィスへの道程を一歩ずつ踏みしめる。

11時ごろから手術は始まったので、神戸のオフィスに着くのは午後1時ごろ。
俺が到着するころには、オフィスはランチから戻ってくる社員たちでごった返していた。
8基あるにも関わらず混雑するエレベーターに、やっとのことで飛び乗る俺。あとは22階まで登る数十秒を我慢するだけ。
そんな十数人が乗り込んだエレベーターの静寂を、突然大きな声が切り裂いた。
「おぉ、お前、痔になっとたなぁ。どや、まだ傷口痛むんかぁ。 ほんま、はやく痔が治ったらええのになぁ。」
先日、立ちながら仕事をする私を見物に来てくださった、営業ディレクターの相田さん(仮名)だった。
エレベーターは一瞬のうちに爆笑に包まれる。
俺の痔を慮って声をかけてくれる彼の優しさを感じつつ、シートン法を受けた日が、俺が社内恋愛を諦めた記念日と相成ったことを悟った。

このゴムを締め上げる作業は、二週間に一回行わなければならない。
大阪の夏は始まったばかり。 いつ終わるともしれない一歩を踏み出した俺の頬を、瀬戸内海の湿った風がよぎる。

(来週に続く)
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<今週のQ&A>
今週もブログを訪問いただき、ありがとうございました。
先週は、仕事やプライベートで急用が続きアップロードできませんでした。 月曜日の朝を爽やかな痔ブログがないがために、暗鬱な気分でスタートしてしまったかもしれない方の事を思うと、慙愧の念に堪えません。 基本的に毎週一回は発行したいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

では、今週の質問です。
「昔の人はどう痔を治したのか」
まず、痔は人間の文明が存在したときから、すでに記録に残っており、紀元前数千年前のエジプトやインドの記録にも残っています。古代ギリシャではすでに肛門鏡の存在が確認されています。
ブログの読者には当然の知識ですが、人間が二足歩行を始めたときにTakeしたRiskなので当然ですね。
古来より、治療方法はシンプルで、i) 患部をそのまま切除する、ii) 患部を切開し鬱血を取り除く、iii) 焼きゴテで焼く、が基本のパターンのようです。字にするだけでも怖いですね。
私が行ったシートン法は、実は古代インドに由来があり、薬に浸した「タコ糸」のようなものを痔管(腸から臀部までを貫く体内の管)に通したのが起源のようです。しかし、当時は麻酔方法ももちろんなく、日本については華岡青洲が江戸時代に全身麻酔を確立するのを待たなければなりません。 華岡青洲は乳癌の治療で有名ですが、実は痔の治療も大変多かったようです。
江戸時代といえば、あの松尾芭蕉も痔に悩んでいたようです。痔が痛くて、四国以降の旅を断念するほどだったとか。当時は麻酔なしでの手術を余儀なくされたことを考えると、かなり苦しい治療だったことでしょう。 「肛門切るなら、麻酔くれ」というやつです。
明治時代では、夏目漱石が有名です。漱石は私と同じ、キングです。彼の遺作となった明暗は、主人公が痔の治療をするオープニングで始まりますが、これにどきっとした人は3000万人が痔に罹っているといわれる日本では少なくないことでしょう。
さらに、漱石のよき友人である正岡子規もキングでした。。。 もはや、優れた文筆家になるためには、痔であることはマストのようです。キングだとよりプロミシングですね。

では、今週もよい一週間をお過ごしください。

One comment

  1. 私も数日前に痔のうになりました((((;゚Д゚)))))))
    参考にさせていただいてます

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